信濃町の癒しの森

文/ William Ross、翻訳/ 西田幸平

飯縄山麓の北東側、すぐ北側に黒姫山があるあたりを航空写真で上から見てみる機会があれば、森の感じがちょっと面白いことに気がつくでしょう。

誰でもちょっとボタンをクリックしたり画面をスワイプするだけでオンライン地図サービスをみることが出来る今の時代なら、そんなに難しいことではありません。

山麓の森林地帯の多くの部分は、同じ色と同じ形で出来た一つの大きなブロックのように見えます。

ちょっとだけ北東側に視線を移してみると、なんだかそれまでの単色の木のかたまりとは違うようです。

そこにはまるで壁があるかのように、片側には濃緑色の木々のかたまり…そう、杉の森が広がり、そしてもう片側には、もっと多様な、大きくて背が高くて色々な種類の木々が、明らかに単一種ではない森が、広がっています。

色も形も大きさも様々な木々で構成された森…そう、そこはアファンの森です。

大部分を占める杉の森は、いわゆる単一樹種植林の森です。

こういった植林は、林業活動が簡単になるため、世界中で一般的に採用されています。

ただし、他の植物や、森林に生息する動物にとっては、必ずしも素晴らしいこととは言えません。

一方、アファンの森はというと、より多くの種類の木々や植生に恵まれたバランスのとれた自然豊かな森ですが、決して何も手を加えないで自然のままに任せているから..というわけではありません。

どちらかというと、それは日本の伝統的な概念であり、また人々の生活と山々の自然とが調和のとれた関係であると言われるいわゆる ”里山” という考え方を呼び起こさせるものです。

昔から日本の里山では、人々の住むエリアは山裾に集まり、少し小高いところには、動物の飼料として、また茅葺き屋根の原料の為に、カヤなどの草が育てられた茅場と呼ばれる野原があったものでした。(実際、今でも信濃町周辺の多くのスキー場などでは、秋になると背の高いカヤやススキの穂が風に揺れているのを目にします。)

そして、さらにそれより上の森には炭を作るためのナラの木が育てられ、人々は森の落ち葉を肥料として使用し、薪のために大きくなった木を切り、春には様々な山菜、そして秋にはキノコをいただくなど、森と共に暮らしてきました。

それがアファンの森の礎となった日本の伝統です。

私がこうした概念を初めて聞いたのは、およそ20年近く前、C.W.ニコル氏と共に美味しいワインと昼食を楽しんでいた時でした。

この森のことを理解するには、ニコル氏について少し知っておく必要があるでしょう。

80年代から90年代にかけての頃なら、特にニコル氏がどのような人であるかという説明はする必要がありませんでした。

なぜなら、当時、彼はしょっちゅうテレビに登場し、自然のことについて語っていましたし、それに、有名なハムとウィスキーのCMにも出ていましたし。

作家、ミュージシャン、武道家、そして何より自然主義者として、クライブ・ウィリアム・ニコル(C.W.もしくはニックとして知られていますが)は、当時間違いなく日本で最も有名な外国人でした。

まぁ実際のところ、彼は1995年に日本国籍を取得して日本人となりましたが。

そしてまた、彼は現代の信濃町において最も有名な町民の1人でもあります。

彼はとても強い自分の意見を持っていて、そのことにより時には地元の人たちとの関係で頭を悩ませることがあったのも事実ですが、それと同時に、本当にこの地域のモノゴトを前に進めることを助けてくれた人でもありました。

その食事の間、彼は単一樹種の植林による様々な弊害と、日本の伝統的な森林を復活させる必要性について、熱心に話してくれたのを今でもよく憶えています。

「ニコルさんは、荒れ果てた森を再生するため、1986年、アファンの森(*アファンはニコル氏の生まれ故郷のウェールズ語で風の通るところという意味)となる森づくりに着手しました。」

アファンの森の敷地の端、印象的な作りの、そして全ての材料が再生可能な素材を使用して建てられたアファンの森財団のセンターハウスで、財団のマネージャーである大澤渉氏が、そう説明してくれます。

「彼は、日本の自然の森の美しさを見て、それは絶対に守っていかねばならないものであると感じていたんです。」

地域の多くの自然林が伐採され、多くの場合単一樹種に植え替えられていた頃(それは林業には適していますが、森林生態学的には不健康な森です)ニコル氏は自分の私財を投げうち森林を買い始めました。

コマーシャルやその他の活動への出演等によって得た資金の大部分を投入し購入を継続した結果、アファンの森は約34ヘクタールの森林にまで拡大しました。

「ニコルさんは、まず森の中の藪を払い、密になりすぎた木々の間伐に着手しました。」

大澤氏は続けます。

「彼は、野生生物の保護にも繋がる森の生物多様性を高めたいと考えました。木々を間伐し、藪を払うことで、より多くの光が森に入ってきます。その光は、地表により多くの植物や花々を育て、それを求めて昆虫が、鳥が、そして動物たちが集まってくるのです。アファンの森財団では、森の再生に伴い、動物たちがどのように行動し森に順応しているのかの観察も行なっています。ニコルさんはまた、この森の再生と保護の活動が将来にわたって恒久的に続くようなシステムを作りたいとも考えていました。そして、2002年アファンの森財団が公式に設立されたのです。」

2020年にニコル氏が他界した後も、森の再生活動は続いています。

大澤氏は2016年に始まったアファンホースプロジェクトについても話してくれました。

北海道生まれの2頭、体は小さいけれど丈夫な道産子たちは、訪れた人たちに面白い体験を提供してくれるだけでなく、実際に森の中で、伐採した木々を運び出す馬搬の仕事に従事しています。

「我々はただの乗馬体験を提供しているというわけではないんです。彼らはアファンの森の再生プロジェクトの一部なんです。」と大澤氏は言います。

ホースロッジは、センターハウスと同じく周りの森や農場の風景にマッチする美しい建物で、6頭の馬たちが入れる厩舎があります。

これは明らかに、将来を見据えたプロジェクトです。

ただし、アファンの森は団体の観光ツアーやトレッキングをするための場所ではありません。

「ここでの全ての活動は同じ目的に沿っています。重要なのはバランスなんです。」

こうしたアファンの森の存在が、そして生物の多様性のためだけでなく我々人類全てにとっても森林がとても大切なものなのだという認識は、信濃町をあることで世界の中でも最も先進的な地域としています。 

森林浴としても知られる森林セラピーです。

コンセプトはシンプルです。ここでは森林メディカルトレーナーと呼ばれている地元のガイドが、1グループ5人までの少人数の参加者を、ほんの短い距離の、けれどとてもゆっくりとした森の散歩へと連れて行ってくれます。

森林セラピーの目指すゴール…それは、都会から来たストレスいっぱいの現代人を森の力で癒してあげること。急ぎすぎのペースを緩め、森の中のたくさんの香りを知り、風や鳥や水の本当の音に耳を傾け、そして日常のストレスから解放されること。

信濃町は、間違いなくそうした美しい森に恵まれた場所です。

けれど、一体なぜ、長野市のほんの北側に位置し、北信五岳の山々やスキー場に囲まれた高原の田舎町が、ここ最近関心が高まっている森林セラピーの中心地となり得たのでしょうか?

(ウォール・ストリートジャーナルが、森林浴の記事を書くために取材に訪れた場所も、この高原の小さな町でした。)

「公式に信濃町で森林セラピーが始まったのは2002年の事です。」

信濃町の癒しの森・森林セラピー事業を運営する地域の組織、しなのウッズライフコミュニティの小菅ちえさんはそう説明してくれました。

「スキー人気の低迷に拍車がかかり、ウインタースポーツを楽しむ人口は減っていく一方でした。そのため、地域として旅行者の方を惹きつける別の体験が必要だったんです。」

(信濃町は町内に黒姫高原とタングラム斑尾、周辺を妙高高原や斑尾高原のスキー場に囲まれています。)

90年代後半頃から、C.Wニコル氏と、信濃町に住む地元のガイドたちは、信濃町にひろがるこの美しい森をもっと町内外の人々に親しんでもらえる方法について度々話し合ってきました。

そして2002年、長野県からの支援も取り付け、信濃町の癒しの森事業(森林セラピー)は公式に産声をあげました。

小菅さんは、ただ信濃町に観光に来てもらうことが森林セラピーのゴールではないと話します。

「観光客が沢山来てくれることは魅力的なことではありますが、私たちはもっと違う何か、肉体的レベルと精神的レベルの両方でより深い何かを望んでいました。私たちは、都会の人々を癒すことができるもの、そしてこの地域の人々も楽しめるものを作りたかったのです。」

現在、信濃町の癒しの森の森林セラピーでは、春から秋にかけて徒歩で、冬にはスノーシューで、人々をこれらの健康な癒しの森に連れ出し続けています。