魅力溢れる場所、野尻湖

文/ William Ross、 翻訳・写真/ しなのディスカバリー、一社信濃町振興局、NLA

 

公式に伝わる話によると、カナダの宣教師ダニエル・ノーマンは、軽井沢の群衆に飽き飽きし、1920年に、日本の大都市の夏の暑さを避けるための新しい場所を見つけるためにバイクに乗りました。しかし、私はポール・スワンソン博士から聞いた話の方がはるかに好きです。

「話によれば、ノーマンと彼の知人の何人かは、息苦しい軽井沢の社会から脱出したいと思っていました。そう、アフタヌーンティーなどの堅苦しい習慣を嫌い、自分たちが一日中リラックスできる場所を探しに出かけたのです。」と彼は言います。

「つまり、不審がられることなく、日がな一日太陽の下で寝転がり、湖に浮いていられるような場所。そして彼らは野尻湖を見下ろす丘、ーそこはかつて地元の住民たちが薪を集め、炭を作っていた森でしたーを見つけ、その土地を購入することができました。」

野尻湖国際村からみる妙高山

そうして彼らは、今年2021年に創立100周年を迎えるNojiri Lake Association(NLA)を設立します。スワンソン博士がこうしたことに詳しいのは、彼が2世代目のNLAメンバーであるだけでなく、日本にあるこの面白い場所の生誕100周年を祝う委員会の委員長でもあるからです。

1920年4月、調査で訪れた野尻湖畔。初のNLAミーティング。帽子を被った紳士がノーマン博士。   写真提供:Nojiri Lake Association

今日、この美しい湖の南岸にあるこの場所には、約250の別荘があります。

「これらのうち一年中居住者がいるのは約10から15軒くらいだと思います」とスワンソン博士は言います。

「以前よりも、冬にスキーに来る方も増えていますが。」

「かつては”外人村”と少し蔑称的に呼ばれていましたが、”日本人”会員が増えるにつれ、今では”国際村”と呼ばれるようになりました。メンバーのアイデンティティは非常に流動的であるため、私は「日本人」という部分を引用符で囲みました」と彼は言います。

「ここには、さまざまな文化的背景を持つ第2世代、第3世代、第4世代の人々がたくさんいます。ここの第2世代、第3世代のメンバーの多くの両親は、戦前から戦後、宣教師として日本にきた方たちでした。私の父もやはり宣教師で、父が私たちを野尻湖に連れてくるようになったのは1940年代後半のことです。つまり、私は野尻湖にかれこれ65年くらいきていることになります。」

野尻湖国際村

今日、かつて国際村ができた頃には木々がなかった丘は、森で覆われています。NLAを構成する小さな別荘たちは緑の中にひっそりと佇んでいます。オフシーズン中、森の中のコミュニティの存在は注意深く見ないと気づかないことでしょう。 夏の週末であれば、湖のビーチで楽しむ若いメンバーたちの存在が、ここが実際に人気のある場所であることをあなたに教えてくれるかもしれませんが。

野尻湖が外国人たちに人気になったのには大きな理由があります。正直、湖というのは日本ではそれほど一般的ではありません。それらはむしろ、スカンジナビアや米国北部、カナダなど、氷河が景観を形成した土地でよく知られています。

ここ日本は火山地帯であり、野尻湖は近くの火山の噴火によって形成されたものです。ー野尻湖の西に位置する黒姫山の噴火、それらの堆積物が7万年ほど前に谷を埋めはじめ、11000年前まで続いたいくつもの噴火により、現在の湖の形が形成されたのだろうと言われています。野尻湖は、一部の人が言うような火山の噴火口そのものではありません。しかし、水深は深く、39メートル以上に及ぶ場所もあります。

ある調査によれば、野尻湖は長野県最大の湖である諏訪湖の表面積の約3分の1しかないにもかかわらず、実際にはその浅くて大きい諏訪湖よりも、遥かに多くの貯水量があるそうです。

美しく、深く、そして冷たい湖の水。標高657メートルに位置し、周囲の山々の素晴らしい景観に囲まれ、涼しいそよ風が吹く場所。こうしたことを考えると、20世紀の宣教師たちがここに夏の避暑地を作ることにした理由がよくわかります。

野尻湖の西側にそびえる火山、黒姫山と妙高山

野尻湖とその周辺には、さらに面白い話がたくさんあります。湖には宇賀神社が鎮座する島、弁天島があります。

弁天島と大鳥居

また1960年代から湖の西岸で始まった発掘調査では、多くのナウマンゾウの化石が発掘されています。また、ヤベオオツノジカやヒグマなどの化石も出土しています。また、動物を屠殺するために設計されたさまざまな石器類が発見されたことから、ここが太古の昔からの重要な集落であったことを示唆しています。

2年に一度行われる野尻湖の発掘調査

 

野尻湖ナウマンゾウ博物館

また、1603年〜1868年の江戸時代(我々外国人にとって、もっとも日本らしいイメージを与えてくれる時代です)には、ここ野尻湖は、北国街道 ー金沢や出雲崎と江戸を結ぶ主要街道ー の宿場町の一つでもありました。金沢は加賀100万石で知られ、出雲崎は、日本で最も重要な金鉱山である佐渡の鉱山から採れた金を降ろす港でした。

日本海沿岸に沿って、西と北の両方向に伸びる街道を想像してみてください。今日の上越市で合流し、平野を上り、信濃町まで東西に並ぶ山々の間を移動してきたのです。何千もの人々が、おそらくそのほとんどの人々が徒歩で旅をしたのです。江戸幕府の命により佐渡の金を江戸(今日の東京)へと運んだもの、また長野市の善光寺へ参拝の旅をした巡礼者たち。

金持ちや庶民、商売人や武士が絶え間なく北国街道に沿って旅をしていました。きっと多くの人が野尻湖のほとりで休み、涼しい風や美しい景色を楽しんでいたに違いありません。

江戸時代の野尻湖(野尻宿)と北国街道

人気はあるものの、野尻湖は静かで自然豊かな場所でもあります。早朝にカヌーを漕げば、結構な確率で、虹色の青いカワセミの閃光を見たり、色とりどりのオシドリを見つけたりすることができるかもしれません。 また、とある静かな半島に沿って木々の高いところに巣を作る青サギのコロニーや、秋と冬に立ち寄る多くの渡り鳥を見ることもできるはずです。

また、キツネ、タヌキ、カモシカ、さまざまなイタチ科の仲間、鹿、野生のイノシシ、そしてもしかしたらツキノワグマも湖岸沿いの森の中に見られるかもしれません。

バス釣りのお客を乗せたモーターボートや、ウインドサーフィンを楽しむ人たちが湖上に繰り出す午前7時頃になると、静かな湖上に少し活気が出てきます。冬になり、ワカサギ釣りを楽しむドーム船の季節になると、湖はまた静かな湖に戻ります。

野尻湖には何世紀にもわたって人々を惹きつける理由が無数にあり、それはここ信濃町の宝でもあるのです。